古代文明では、水はいのちの根源であり、
知恵のある存在とされてきました。
現代の私たちも、無意識にそれを
知っているのではないでしょうか。

水のちからを話そうとすると、エセだ・オカルトだ…という科学者が必ず現れてきます。
では、その人たちに〈呪い〉と書かれたコップの水を飲んでください、と言ったら、どうでしょう。
多分がんばってお飲みになるでしょう。
ただし、本当は何か気味が悪くてあまり飲みたくないという気持ちになるでしょうし、また、逆にそんな水を人様に勧めることもしないはずです。
それは、水とそのエネルギーについて何かを感じ取っているからではないでしょうか。
水を〈単なる溶液 〉 と考えるようになったのは、最近のことです。
エジプトやメソポタミアや中国などの古代文明のあったところでは、水はいのちの根源であり、水はすべてを記憶し、また、知恵を抱く存在であるとされていました。
古代の知恵を細々ながらつないでいる現代の日本においても、神事には必ず水が使われます。
それを禊(みそぎ=水注ぎ)と言います。
我々日本人は、こころと体を清めるのに、必ず水のちからを借りるのです。
西洋における聖水も同じです。
ご先祖さまほど鋭敏ではないにせよ、現代のわたしたちも、無意識のうちに水のちからを知っているように思います。
それは現代科学では証明や解明ができない事象であり、目で見ることはできませんが、意識をむけると、きっと誰もが感じることができるものです。
一度、水のちからを信じてみてはいかがでしょうか。
地球と水と命会報誌 「MIZUPOTO」より